渋谷区円山町は、明治初期(1887年ごろ)に花街となり、1980年ごろまで芸者の街(三業地)として栄えたそうです。そんな歴史のあった円山町には、現代でもかつての街の様子を伝える史跡が残っています。
(円山町に残る芸者階段 2023年6月撮影)
渋谷の地形について
渋谷スクランブル交差点は、谷底だった。
渋谷は昔、現スクランブル交差点あたりが谷底になっていました。スクランブル交差点付近は、道玄坂と宮益坂に挟まれており、海抜で見てみても谷底であることがわかります。
宮益坂の坂上付近の海抜は、33.9m です。
【出典】国土地理院
道玄坂の坂上付近の海抜は、32.4m です。(坂の中腹部での計測値になりますが、それでも左記のような値で、上に行けば行くほど海抜は高くなります。)
【出典】国土地理院
スクランブル交差点付近の海抜は、15.3m です。
【出典】国土地理院
2つの坂上付近とスクランブル交差点の海抜を比較すると、なんと 約18m も差があります。
円山町周辺の海抜も見てみましょう。青 22.7m・黄 33.7m ・ 赤 31.5m ・ 緑 33.8m でした。最大値と最小値の海抜差は、約11m となっており、そこまで広くない円山町周辺でも海抜差がかなりあることが分かります。このように渋谷は凹凸のある地域であり、そのため階段や坂が多いです。
【出典】国土地理院
円山町の歴史・史跡について
昔、花街(三業地)として栄えていた。
当記事の冒頭でお伝えした通り、渋谷区円山町は昔花街として栄えていました。
円山は江戸時代から大山街道の宿場町として栄えていた。円山町が花街となったのは、1887年(明治20年)頃、義太夫流しをなりわいにしていた人が、弘法湯の前で宝屋という芸者屋を開業したのが始まり。その後、年とともに芸者屋、料理屋が増していき、それに伴い代々木練兵場の将校達が円山町に遊びに来るようになった。
ウィキペディア 円山町(渋谷区)歴史から引用
(料亭三長 2023年6月撮影)
最盛期には 400人もの芸者さんがいたそうです。現在は唯一『料亭三長』で 4名 の芸者さんが活動中とのこと。
円山町を散策していると、『花柳流日本舞踊稽古場』を見つけました。恐らく、円山芸者の方々がここで稽古をしていた、又は稽古しているのではないでしょうかね。芸妓などの社会のことを、花柳と言うそうです。この花柳と花柳流との関係性は明確にはよくわかりませんでしたが、土地柄的に関係性はありそうですよね。
(花柳流日本舞踊稽古場、2023年6月撮影)
今も残る『芸者階段』
下駄を履いた芸者さんが歩きやすいように段差が低く作られた階段のことを『芸者階段』と言います。円山町には、未だいくつも芸者階段が残っており、今回一部を撮影してきましたので、ご覧ください。
下記の写真は、低い段差ではないですね。
高低差があるため、上記のように芸者階段ではない階段も多くあります。何故か2種類の異なる階段とセットになっているケースが多いです。恐らくですが、明らかに作りが古く段差に統一性の無い右側が昔からあったもので、幅が狭く不便であるため拡張する意図で左側に新しく作ったのではないでしょうか。どなたかこの辺に詳しい方に聞いてみたいものですが…。
これは芸者階段です。真ん中の白くなっている部分はなんでしょうかね。補強のための何かなのか、それとも左右の階段を接合したのか、余り詳しくないのでわかりません。
この階段は、階段オタクにはたまらないのではないでしょうか( *´艸`) 建物間にある仕切りの塀が階段上にあるのはどういうことなんでしょうか(笑)
円山町ギャラリー
『料亭三長』の別口になります。門が洒落ています。
料亭三長と同じ敷地に『道玄坂地蔵尊』がいらっしゃいます。
『おでん割烹 ひで』です。HPを見ると、ここはおでんを食べるだけでなく、芸者遊びもできるとのことで、敷居が高そうですね。
京王線神泉駅前にある踏切から撮影したトンネルです。
京王線神泉駅近くにある香ばしい香りのする建物を発見しました。
私の古い建物発見アンテナが反応し、ここに良い感じの建物があるのを発見しました。ですが、周りに囲まれすぎて全貌がわかりませんでした。悲しい(-_-)
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